それは五歳の時のことであった。その日は母が朝から早起きして今日は実家に行くからと言うので私と妹の三人で母の実家に行く事になった。しかし私は行くのは余り乗り気にはならなかった。なぜかと言えばバスを乗り継ぎその上降りてから1時間近く歩かねばならない、しかもその道は急な坂が続くために子供には大変だったのを憶えている。 それから準備を整えて家を出て三人でバスに乗るとそのバスは約1時間で次のバス停に着く、そこでそのバスを降りて次に隣の県からくるバスに乗り換えるのである。そして待つこと40分、次に乗るバスが来る。そのバスに乗り今度は30分かけて目的地のバス停に着くとそこで降りてその急な坂や崖が待つ道を歩いて約1時間位かけて目的地の母の実家に行くのだ。ほんとに半日がかりなのである。 今みたいに車もなく当時は殆どの家にはあっても単車くらいであったのを記憶している。そして母の実家に到着すると皆で歓迎され、何より楽しみだったのは田舎独特の饅頭を祖母が作ってくれていたのを思い出す。今ではとうの昔に祖母も亡くなりそれ以来食べることはできなくなり幻の饅頭になってしまった。 そしてその日に不思議な未知との遭遇が起きようとは想像することもできなかった。それは薄暗くなりかけた時に隣の親戚の家に行こうとしていたときのことである。道を歩いていると何か光る大きな物がこっちに向かって進んでくる,しかもゆっくりとそれはオレンジ色や青色や赤味を帯びた大きな円いもので1メ−トル位の大きな光る物体である。地上から3メ−トル位の高さの処を浮いた状態でこちらに向かって進んで来るしかも私の目の前を通り過ぎたと思ったら急に隣の家の屋根の高さまで上昇してその家の向こう側に消えてしまったのである。この時私には何のことかわからず横にいた大人が「あれは火の玉なんだよ」と教えてくれたことで初めて火の玉と云うものを見ることになったのである。あの赤いそして青白い不気味な色になる火の玉を生まれて初めて目の前で見たのである。なんとも不思議な現象、未知との遭遇であった。 そしてそれが人の亡くなる前兆であることも初めて知り、実際翌日にその火の玉が消えて行った家では葬式の準備となったのであった。少しショックではあったが子供心に人はどうして死ぬのだろう等と考えたことを思い出す。 世間の科学者は本当の火の玉など知る由もない小さいピンポン玉みたいなものを火の玉と言い作れるなどと言うがそうであれば1メ−トルもの大きさの火の玉を作ってみるがいい、不可能なんだよ子供でもわかることだ・・・・・ それから不思議と子供なりに人間の運命や死というものについて考えるようになった。この時の体験が今の仕事のきっかけになったのであろうと思う。この事は俳優の山内賢(故人)さんが過去に初めて訪れた時に話したことがある。 そして母はよく隣町の霊能者の下に行き色々お質ねしていた。私も何回か連れられて行きやはりそこで人間の弱さや人の悩み事、心配事も色々あると云うことを知ることになったのである。まだ小学校への入学前のことであった。 そしてその後父親の転勤によりその隣町に引っ越したためにその霊能者の女先生の家には殆ど毎日のように行くようになり、そこに来ている相談者からは可愛がられたのを思い出す。 それからその先生の家に四六時中出入りするため母親からもその先生からも学校の勉強をしなさい、宿題をしなさいと良く言われたが余り言うことは聞かなかったようである。そこでは相談者が来たときの暗い顔が帰りには皆明るい顔で帰って行くのを見てとても不思議でまたその先生の力の凄さをいつも感じていた。そして小学高学年になると霊魂の勉強や滝行にまで付いて行く事になり集中した状態だったのであろう。このことが教員によるイジメに遭っても無欠席で登校したりした原動力となった。このイジメ教員はそれは酷いものであった。今で言えばイジメにより小学生や中学生・高校生までがその貴重な命を自ら絶つことも起きており、そう云うニュ−スを聞くたびに胸が痛む・・・・・ 生徒をイジメル教員、暴力を振るう教員は逮捕されるまではわからないのであろう。親も我慢することはないよ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今日は縁ができた日蓮宗の寺院で住職の許可を頂き朝五時からの水行、やはり冷たいのがわかるが途中日蓮上人尊の出現。一層やる気が起きた寒行であった。その後何回も行い其の都度背後に立たれたりすることがあったが、守護頂くこと以外の意味は深くはわからなかった。その後身辺も忙しくなりまた住職も遷化されたために縁が薄れてしまった。 とても気さくで良い人だった。健康の面を霊視したので注意されるようにお伝えはしたのだが。 本当に惜しい人で、家内に霊能力がありますね、と見抜いた、たった一人の御上人であったがショックが大きかった。 その後は神奈川県の行場での修行も思い出ばかりだ.。併せて天台宗の寺院でも修行をさせて頂き年に何回も行くことになった。 それから今度は高野山真言宗の寺院に縁ができてここでも住職の許可を頂き早朝からの勤行他かれこれ20年以上もの間に亘り修行をすることになった。元を質せば会社を興された時からの知り合いであった。人手が足りない時などお手伝いすることもあり、御夫婦で一生懸命に働いておられた姿が目に浮かぶ。 そして私にとって心の師匠とも言える占い師の先生に引き合わせたのもこの会社の社長(住職)であった。この占い師の先生とはその後16年以上のお付き合いをさせて頂くことになった。そして会社は人に譲りこの高野山真言宗の寺院を開かれたためにそこにお邪魔させて頂くようになり、そこでの霊体験や修行など20年以上に及んだ。しかしこの住職も御夫妻共々遷化されてしまった。それなりにショックは隠し切れなかった。今でも寺院は存在するが全然知らない人になり寺院の体をなしていない。葬儀の会社がヤドカリみたいに住所を置いてさもありなんである。子供も跡を継ぐこともなくそのうちまた転々と人手に渡るのだろうか? 今振り返れば修行中、作務衣を着た僧侶が出現し「おまえのことをたのまれている」と言われたこと、別な日の辛い修行の最中に弘法大師尊が出現して気持ちを奮い立たせて頂いたりと、その折折りに霊現象を起こして頂き安堵した日々も多かった。 その後は思うところあって大峯山修験道に進んだ為再び苦節の道が始まり別面命懸けでもあったが覚悟の修行であった。 それから吉野山修験道と大峯山修験道で並行して16年間を送る。 令和6年8月記 続く BACK |